白林檎ベースステーション

白林檎ベースステーションは、林檎系個人サイトです。つまり、アップルコンピュータ社の Macintosh の中途半端マニアがうだうだしているだけのサイトです。得るモノ? 他人にそんなものを求める根性は間違っています。まあ、まったりと日記などをお楽しみください。

白林檎的日常

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2002.12.16

 数日前のことだけど復刻版ビックリマンチョコを買ったら、シャーマンカーンが当たった。ビックリマンシールを知らない人はいないと思うが、知らない人のためにひとこと言っておくと、要するにおまけのシールなのである。これが現在のポケモンと同じくらい一世を風靡した時代があったのだ。

 話は変わるが今朝寝坊をし、大変な慌ただしさだった。ぼくが慌てるくらいだから、先方はもっと慌てていたことであろう。やれやれ。その後気分転換に王寺をフラフラしてきた。なぜ王寺なのかというと、行ったことがないからである。ぼくは見知らぬ土地をあてどなく歩くのが好きだ。ひょっとすると根は旅行好きなのかもしれない。それ以上に出不精なので滅多に旅行しないけど。

 車窓から見える王寺の街並みはかなり賑わって見えたのでてっきり市だと思っていたら、看板に「王寺町」とあってまず驚いた。歩き回ると典型的なニュータウンの駅前という感じの側と、旧来からの住宅街や商店街でごった返している側とに線路を挟んで分かれていて、なかなか面白かった。巡る内に古本屋があったので筒井康隆の初期ショートショート集と、兼ねてから読みたいと思っていた阿川弘之の随筆集を購入。締めて 300 円。古本屋最高。また訪ねることにしよう。


2002.12.15

 家庭用プリンタの意外な弱点を発見。あまり多くの枚数を一度にプリントアウトできないのである。意外でもなかったかもしれない。

 いや、とにかくですな。30 枚やそこらしか一度に印刷できないものだから 1000 枚もプリントアウトするときには付きっきりで作業しなければならずそうなると一体何のための自動給紙トレイかと叩き割りたい衝動がフツフツと胸の奥に煮えたぎる今日この頃であるので家庭用プリンタで 1000 枚もプリントアウトしようというのがそもそも無茶である間違いなのであるという向きは無視。1000 枚とまでいかなくても 200 枚程度ならどこの家庭でも年賀状として用意されうる枚数である。それすらも一時間や二時間、長いときには半日もパソコンの前でじっとプリンタの面倒を見なければならず、トイレに中座して戻ってきたら「用紙がセットされていません」などとエラーメッセージが表示されていると来た日にゃ一体何のための自動給紙トレイかと叩(以下略)。

 まあそういうわけで、そろそろ画質競争は肉眼ではわからない領域に突入していることであるし、プリンタメーカー各社様におかれてはこの辺を考慮した新製品を開発していただきたいもんである。

 年賀状で思いついたからついでに書いておくけれども、年賀状の作成・送付というのも年末の慌ただしさに確実に一役買っていると思うがどうか。大体、新年の挨拶なんだから年が明けてから書けばよさそうなものである。それでもちゃんと松の内には届くだろう。「新年の挨拶だから一月一日に必着」という方に最初に着目したのは誰だか知らないが、バツとして反省レポートを課す。三文字以内で有意な反省文を用意すること(模範解答:御免。)

 眠いので寝ます。


2002.12.12

 やれやれ。ようやく懸案のスクリプトを書き終えた。あとは実装だけである。そう、ここまでやってもまだ実装が残っているのだ。でも肩の荷は少しだけ軽くなったような気はする。ライブレポートをサクっと作ることにする。


2002.12.11

 目が覚めたら夕方の五時。既に外は日が落ちかけて暗くなっている。時刻が時刻だし、いくら何でも自分が十数時間寝たとは思い付かないので、夜明け前に目が覚めたのかと思った。昨日は夜明けとともに起き出して朝食をとり、掃除やら何やらをした後に昼食をとって仕事に行き(風邪薬のおかげで眠く仕事にならなかったが)、帰ったら夕食をとってその後 STAR WARS Episode II の DVD を鑑賞、相方がさっさと寝てしまった後ひとりでメイキングディスクをちょっと眺めて、風呂に入って寝たのが二時。決して夜更かしではないんである。ぼくの基準ではむしろものすごく健康的な生活だったのだ。が、今日夕方まで寝たので台無しになってしまった。

 極端に長時間の睡眠を取るようになると、いよいよ冬が来たという気になる。冬の間、ぼくは実生活よりも夢の中で過ごしている時間の方が長い。きっとそうしている方が楽だというのを、頭のどこかで感じているのに違いない。ぼくの躁鬱は病ではなく、症ですらなく、おそらく気質と呼ぶべき程度のものだけど、鬱がかってくるとほとんど神経症に近いくらい精神状態が不安定になるからだ。ちょっとしたことですぐ不安になったり、悲しくなったりする。何でもないことが気に掛かって仕方がない。これが鬱なのかどうかと問われると自信がないけれど、ともかくそんなで昨日も寝る前に何度も窓を開けては戸外を確認していた。どういうわけか、家に火がついていないか気になって仕方がなかったからだ。

 いただきものの蕎麦をざるにて食す。美味。ざる以外で食べるのはこの蕎麦に対して失礼というものであろうというくらい旨い。蕎麦湯も良い味が出ていた。そういえば蕎麦を食いながら花火師のドキュメンタリーを見たのだが、花火ほど日本的なエンターテイメントもないのではないか。華やかで、はかなくて。祭りの賑やかさと日本的わびさびが見事に融合しているように思う。花火、見に行きたいなぁ。もう冬だけど。


2002.12.9

 東京では大雪のようで、先頃まで住んでいた身としてはあの悪夢のような苦労を思ってあまりあるのであるが。まったくもって東京という街は異常なまでに悪天候に弱い。毎年大雪が降ることがわかっていながらどうしてああいう都市構造にしたのか、設計担当者出てきて雪掻きしやがれシャベルは貸してやるからと意味不明なことを叫びたくなるくらい、悪天候に弱い。だからぼくは東京が嫌いだ。

 ところでインターネットという単語に引き続き「〜する」というよくわからない活用を強いられているブロードバンドという単語がある。ぼくも電話をかけたり電話を使って通話することを指して「電話する」などと言うので五十歩百歩なんだけど、気になるんだから仕方がない。特にニフティの CM のコピーが耳につく。家族の絆が広帯域幅だったらどうなるんでせうね。

 言葉は多くの人にとって最も基本的な道具の一つだから、あちこちで口にしたり耳にしたりするうちに陳腐化するというのは多くの表現にとっていわば宿命的なことである。情報が一気に広まる現代では、この傾向は益々加速の度合いを強めていく。広告業界が斬新な表現を求めて突っ走るのはこういった止むに止まれぬ事情があるからなのだろう。

 陳腐化は一方で一般化という側面をも併せ持っている。逆説的に言えば耳新しくなくなったときその表現は「ことば」として受け入れられたことを意味する。陳腐化ないし一般化の過程で本来的な意味から外れてきたとしても、多くの人にとって表現と表現される対象が等号で結ばれている以上、もはやその表現がそうした意味で定着していることを原理主義者は認めざるを得ない。

 いや、ぼく自身を納得させるためだけの理屈かもしれないのだけど。理屈っぽい人間を言いくるめるには理屈に限るんである。「インターネット」然り、「ホームページ」然り。「ブロードバンド」も現在そうした時期にさしかかっているということなのだろう。今日の理屈終わり。

 そういえば今日は埼玉でジョン・レノン関連のイベントが開催されたとのこと。それで東京にいなかったんだね、教授。忘れていたが昨日はジョンの命日であった。彼が非戦を訴え続けた国には、今、戦争がしたくてウズウズしている大統領がいる。さっさと辞めろ、バカ息子。