Final Fantasy X の続編が出るとか。FF シリーズでは初のストーリー的に関連のある続編だとのこと。来年三月発売。
これを聞いたとき、まずぼくは「ああ、スクウェアも相当ヤバいんだなぁ」と思ってしまった。自慢の映画は技術力を誇示しただけに終わり、ハリウッド史上二位の赤字を記録。さらに新作の Final Fantasy XI は売上が伸びず、伸びないからといってネットゲーだから投げ出すわけにもいかず、相当収益が悪化しているはずだ。
RPG で続編が作られることは別に珍しい話ではないし、大抵は成功を収めていると言っていい。ドラクエの初期三部作などはその最たるものだろう。深い関連を持たせることで壮大な物語背景を作り出すことに成功している。だが今回の FFX の続編についてはまた話が違ってくる。詳しく内容を見たわけではないが、舞台が X の数年後であったり、主人公がユウナだったりと、どうも X のファンに手堅く買わせて儲けようという作品のような気がしてならない。
ところで今ちょっとしたデーモンを Perl で書いている。Perl は奥が深い。その関係で XML もちょっとかじった。なるほど、大した物だ。面白い。
世の中にはスゴイ人がたくさんいるものだなぁ、と実感する毎日。悪くない。
唐突だがぼくが Mac OS X 10.2 (じゃぐわー)にしない理由。10.1.5 でも不便は感じておらず、そもそもまだメインは Mac OS 9 であるのに、アップグレードする必要があるとすればそれは好奇心だけだと思うのだが、その好奇心もあまり刺激されないからである。もっとも、だんだん 10.2 のみ対応というものも増えてきたから、Mac OS X をメインで使うのならそろそろアップグレードしなければならないところであるとは思う。
やっぱり Mac OS 9 と Mac OS X は全然違う OS なのである。操作感は慣れればよいとして、過去の資産を全くといって良いほど活かせないのは従来のユーザーにとっては大きな痛手だ。色々な人が言ってるけど。
個人的には操作感でもまだまだ及第点じゃないんだよなぁ。好みの問題だとは思うけど、どうも Mac OS X の Finder は Finder と名乗るにはまだ未熟すぎる気がする。というより、総じてまだ OPENSTEP が Mac OS に化けきれていないように思う。次世代 Mac OS というよりはまだまだ使いやすい UNIX OS だ。UNIX の一流派として見たときにはかなり優れたインターフェースを持っていると思う。最近急激に使いやすくなった Linux のデスクトップ向けディストリビューションと比べても一日の長がありそうだ。
話は変わるが目が痛い。頭も痛い。眼精疲労と極度の肩凝りなのである。キューピーコーワ i でも買ってきて飲んでやろうかと思ったのだが、そんな元気もなく、とりあえず冷蔵庫にあったビタミン B の錠剤を服用。眼精疲労は少しマシになったような気がする。相方もほぼ同じ症状だが、これに加えて風邪もひいている。先週よりは大分良くなってきたと思うが、まだちょっとしんどいようだ。
どう足掻こうがぼくにも伝染るに決まっているので、ミカンを食べたり VC3000 を貪り喰ったりしているが、そろそろ喉が痛くなってきた。うーん。秋。
ともあれ週に一日は Mac に向かわない休眼日を作らなければなぁと思う。何しろ毎日ほぼ半日は Mac のモニタを見ているのだ。Mac のモニタを見ていないときは何をしているかというと、Linux をいじったり Windows をいじったりしているので、結局一日中目を酷使しているということになる。痛くなって当然だ。
とりあえず手元から OA 目薬が手放せない。
ふらりと立ち寄った文房具店でけん玉を発見。懐かしさのあまり即購入、お値段 600 円也。
何を隠そうぼくは日本けん玉協会の会員なのである。もっとも小学生の時以来何年も(いや、十ン年も)参加していないから、とっくに除名処分にでもなっているだろう。けん玉協会? そんなのがあるわけ? と思った人。あるんですな、これが。少しでも興味の湧いた方は同協会が主催している
けんだま“こだわり”どっとこむというサイトをご覧になるとよろしい。
けん玉協会に参加したのは友人に誘われたからだったのだが、どうしてなかなか奥が深いモノである。けん玉なんて、とバカにする人ほどヘタだったりするが、一度ゆっくりとやってみると良い。一汗も二汗もかけること請け合いだ。何しろ久しぶりにやったら息が上がった。
ぼくは協会で初段を認定されたこともあるのだが、何分小学生のときのことなので、久々にやってみたら当然なまっていた。それでもけん玉をやる人は珍しいらしく、皆の前で披露するとなかなか好評を博した。これがいわゆる昔取った杵柄というやつだろうか。
小学校の頃、土曜日の午後などはときどき友人や弟とけん玉協会会員の、ナントカというおじいさん(確か W が頭文字だったはず)の家へ行ったものだった。そこでわいわいとけん玉に興じるわけである。今もお元気で地域の子供達をご指導されているのだろうか。あの優しいまなざしが懐かしい。
今日は休眼日なので、というわりには日記など書いたりしているが、ともかく目を休めるため緑を見に行ってきた。
ぼくの住んでいる街は古い歴史と無数の古墳を有していて、古墳群のうちのひとつが公園になっている。他にもあるかもしれないけれど、知らない。ともかくその公園に相方と二人、弁当を持って歩いて行った。この公園は少し離れたところにあるが、ハイキングというほど遠くもない。しかし散策には丁度良いところだった。緑が多く、車の音も電車の音もしない。何とも気持ちのいい場所だ。
四阿で弁当を食べてしゃべっていると、遠足と思われる小学生の集団に遭遇。最近は随分と人数が減っていて驚く。こういうのを見ると少子化という言葉が急に現実味を帯びてくる。ところで「少子」という言葉はもともと小さな子供の意であると岩波文庫のしおりに書いてあって、その文章は言葉は変わるものだという意味の文で結ばれていた。と思うのだが、結びまでは正直に言うと忘れた。とにかく言葉に関するまめ知識が載っているこれらのしおりは、岩波文庫を買うときの密かな楽しみだったりする。
相方と小学校時代のことなんかをしゃべりながら、公園を散策。横穴墓群の名の通り、その山肌にはやたらと穴が開いている。途中どんぐりが落ちていたり、小さな柿の実(相方によれば間引かなかったのだろうとのこと)がなっていたりと、そこここに秋の風情が感じられて上機嫌になる。
その後、隣接している歴史資料館へ。いろいろと面白いものが展示してあったが、なかんずく人面の描かれた土器が面白かった。呪い(「まじない」である。「のろい」とか読まないように)に用いたのだそうだが、それにしてもコミカルに描かれている。
帰途、スケッチショウの新譜を購入。非リアルタイム型 YMO 小僧のぼくにはたまらん音だ。なんだかファンサイトくらい作ってしまいそうな勢いである。
京都の町は合理的なまでに合理的に区画が整理されていて、方向音痴のぼくでさえ適当に見当を付けて歩いても目的地に着いてしまうほど、路がわかりやすくできている。ただしこれは徒歩での話だ。何しろ大阪以上に一方通行が多いので、自動車だと慣れない内は相当難儀するだろう。
寺町通りという京都の電気街と思われるところをふらりと訪れ、散策。小さいながらもニノミヤの Mac 館があって、ちょっと感動したのでつい立ち寄ってみたら、ちょうど店員が Photoshop Elements か何かのサポートをしているところだった。客は年輩の男性。機種は PowerBook G4 である。スペックまでは知らない。そんなことが見ただけでわかったら、さっさと占い師にでも転職している。なかなか説明を飲み込めない男性と微笑がだんだん嘲笑に変わりつつある店員を横目に見ながら、ざっと店内を回る。特にめぼしいものはなかった。
とあるゲームショップで妙なものを発見。Xbox の展示台でひっそりと稼働している
任天堂スーパーファミコン with ストII。なんだそりゃ。Xbox の過剰在庫をちょっとでも減らす為に、他のハードを Xbox に見せかけて稼働させている販売店が続出しているとは聞いていたけど、実際に我と我が目で確かめたのは初めてだった。
展示台は Xbox のロゴの入った緑と黒を基調にした台で、上にテレビ、その下のスペースにゲーム機を置くタイプの、よく見かける形の台である。その「ゲーム機を置くところ」に、ちんまりとスーファミが鎮座していたのである。さらにその事実を隠そうかとするようにうず高く積まれた Xbox の空箱。しかもそれらの空箱は完全にはゲーム機を隠しておらず、一応はスーファミが稼働していることが見えるようになっていて、きちんと言い逃れできるようになっている。
素薔薇しい(© ヨダレ団長)。
店内には数人の子供がいたが、それぞれプレステ 2 とゲームキューブの体験版に夢中で、Xbox の展示台は誰にも相手にされていない。いきなりこういうものを見せられるとさすがに
大爆笑 衝撃を受ける。スーファミなのは任天堂のお膝元だからだろう。別にスーファミじゃなくてもいいんだろうけど、64 以降の任天堂ハードも他人のことは言えないようなラインナップだからな。質はいいんだけど。
こんなことを書いているぼくは実をいうとゲームキューブファンだったりする。何か親近感あるし。色々な意味で。