実家に帰省して、大阪に持って帰ってきたものが二つある。ひとつは石鹸とシャンプーである。そんなら三つじゃねーかなどというツッコミはしなくてよい。
この石鹸とシャンプーは、炭から作られているらしい。父が最近凝っているらしく、またアトピーにも良いのでいくつか持って帰れと言われたのである。確かに普通の石鹸を使うよりも大分良いようだ。汚れもしっかり落ちる。シャンプーなど一度洗髪したら二日ほど放っておいても支障がないくらいよく洗える。持つべきものは親だ。
もうひとつは、小田和正のCDである。CDというか、正確にはCDの中身なのであるが、オリジナルのCDはほとんどぼくが買ったものであるし、これくらいの個人利用は消費者として当然の権利だ。だから、こうして日記にも堂々と書けるのである。
文句あるか。
小田和正の曲はぼくの音楽的な原点であると言って良く、最近はしばらく遠ざかっていたから『個人主義』の収録曲は自信がないが、それ以外の曲なら、オフコース時代のものも含めてほぼ全て知っている。知っているというのは、曲名と歌詞とメロディとバッキングが完全に結びついて、頭の中にストックされているという意味である。
一時期、このことが逆にコンプレックスだった。どれだけメロディを書いても、どうしてもどこか小田節になってしまう。それがつらかった。そこで、大学に入る前後から最近まで、しばらく小田さんの曲からは距離を置くようにしていた。おかげでいくらか影響力は弱まったが、これは別に小田和正が嫌いになったというわけではなくて、今もやはり好きである。
こうして聴いていると、なぜだか少しほっとする。決して郷愁などではなく。いくつか足りないアルバムもあるから、いずれ買い集めたい。
PHPのコンパイルオプションを忘れて四苦八苦している白林檎である。ぼくはPHPのコアユーザーではなく、日本語が素直に通ってMySQLと普通に通信できれば満足だから、とりあえずmbstringだけ有効にしてインストールしてしまおうかしらん。古いスクリプトで問題が出てきたらまたコンパイルしなおそう。
自由にカスタマイズできるという権利は、自由に使いたければ自分でカスタマイズしなければならぬという義務と表裏一体でしか存在できない。それが嫌なら既製品を使え、という話になる。ありとあらゆるジャンルでフリーソフトウェアが出現しているのにも関わらず、商用ソフトウェアが消えてなくならない理由はここら辺に存在しそうだ。
別にそれが悪いと言っているのではなくて、フリーソフトウェアを本当に初心者層にまで普及させたいのなら、その辺のことも真剣に考えなければいけないと思うのである。選択肢が多いということはつまり自分で選択しなければならないということであって、マイクロソフト製品を与えられる事に慣れている一般ユーザーを「自由だから」のひとことで説得するのは、かなり無茶な話だと考えるべきだ。
OpenOffice.orgはテンプレートや素材も揃ってきて、さらには解説本も発売され、かなり恵まれた環境にあると言える。しかしながら配布方法がダウンロードのみというのはやはり心もとないというか、有体にいって不親切であると思う。CD-ROM配布はその意味でとても重要な意味を持つだろう。本当はパソコンにバンドル、もう一歩進んでプリインストールくらいされていると、初心者でも違和感なく使えるのだろうけど。
Studio Caseが届いた。Studio CaseというのはCubase SEという音楽製作ソフトを中心に、いくつかのVSTプラグイン(まあシンセサイザーの増設カードみたいなもんであるな)がセットになったパッケージである。比較的初心者層をターゲットにした製品ではあるが、レビューを見る限りでは、上位バージョンとの機能差は細かいところだけで、つまりぼくにはこれで十分ということである。Cubasisからのバージョンアップ価格で、およそ半額であった。
このソフトには生意気なことにUSBドングルが付いている。生意気ではあるが、最近流行りのアクティベーションに比べれば、こちらの方がずっとスマートなライセンス管理方法であると思う。第一、見た目にもわかりやすい。USBドングルの本数だけしか起動できないということがわかれば、違法コピーをする気も失せようというものだ。もっとも、ありとあらゆるソフトがドングルを採用したらUSBポートが大変なことになるから、今後採用するのはせいぜいスタインバーグとアドビくらいでよい。
説明書を見てみると、推奨環境はG4 733MHz以上とある。さらには最低動作環境はG4 450MHzとある。我が愛機はというと、G4 400MHz。仕様上は明らかにスペックが足りない。これはCPUカードを買ってアップグレードしなければならないな、と、
期待で 不安で胸が一杯であったが、いざ動かしてみると、何のことはない、普通に動く。Cubasisのソングファイルをいくつか読み込ませて鳴らしてみても、十分普通に使えそうだ。もっとも、VSTを鳴らしていないから、というのもあるかもしれない。しばらく使ってみて、どうしてもストレスを感じるようなら、そのときにアップグレードを考えることにする。
長崎の小学校で起きた同級生殺人事件は、遺族のみならず、加害者の両親を含むあらゆる関係者が、それぞれの立場で想像し得る最大限の悲しみにくれていることと思う。心痛察するに余りある。
その一方で、頭の悪いマスコミがまたいろいろな風説を流布して回っているのが腹立たしい。曰く2ちゃんねらーであったとか、曰く『バトルロワイヤル』の熱心なファンであったとか、まともに考えたらとても原因だなどと思いつかぬようなことばかりをあげつらって喜んでいる。あのな、お前らな、今日び日本にどれだけの2ちゃんねるユーザーがいると思っておるのだ。バイオレンス作品のファンがどれだけ暮らしていると思っておるのだ。朝日新聞の購読者数と同等か、それ以上は確実に存在するんだぞ。
既存メディアがことあるごとにインターネットコミュニティを攻撃するのは、まず間違いなく企業としての生存本能の成せる業なのであるが、本能行動だけあってまことに程度が低いのは見ていて情けないくらいである。あることないこと脊髄反射的に煽り立てた挙句、火の粉が自分にも降りかかる大火事の発生する可能性があることなど、想像した事もないのだろう。メディア産業が情報の解放に反発した先に待っているのは、情報統制という暗黒時代だ。政府に許可された報道だけを行い、政府の検閲の入った論評をし、時の政府の意に染まぬ文芸作品や映画作品がことごとく弾圧されたら、お前らそれで満足か。
自滅といえばレコード業界がとうとうカンオケに片足を突っ込んだようだ。音楽CD輸入権万歳。リスナーからもミュージシャンからも支持されないような音楽業界なら存在せぬ方が良い。とっとと滅びてしまうがいい。
六月に入った途端、日記が息も絶え絶えという状態になっているが、別に白林檎が病気をしているとか入院しているとかいう訳ではなく、書き記すに値する面白いことがなかなか起きないだけである。今日など夕方まで寝てしまった。実に十六時間の睡眠である。二日分である。気持ちもだらけようというものだ。ちょっと薬が効き過ぎたらしい。
FreeBSDのパッチが出ているので、充てる。Mac OS Xのアップデータも何か出ていたので、充てる。Mac OS Xになってからセキュリティアップデートが増えたが、今回のはUNIXと共通の部分ではなく、Macであるが故に存在する欠陥である。こんなこと、autostart以来じゃなかろうか。やはり便利さと脆弱性は紙一重なのだなぁと思う。
あきんどへ夕食をとりに行った帰路、相方に「blogって何?」と訊かれた。日記とどう違うのかを知りたかったらしい。とりあえず一貫したテーマを持っているかどうかがその違いではないかと答えておいたが、本当のところはよくわからない。しかし、コメントや関連リンクや検索などの機能が充実していればblogであるかというと、それは違う気がする。殻も重要だが中身がなければコンテンツは成り立たない。個人的にはやはりテーマ性がキーワードであるように思う。
何かこう、また「それっぽい」言葉が独り歩きしていて、実に嫌な感じである。