昨日、コピーライターN.F.氏の事務所にお邪魔して、淀川の花火を見物してきた。氏の事務所は南堀江にあるのだが、ビルの合間からうまい具合に花火が見える。淀川からは結構な距離があるらしいが、それなりに大きく見え、爆音も響いてきた。
花火大会が終わる頃、サッカー日本代表がバーレーンに逆転され、観賞会はそのまま応援大会に移行した。結果はご存知の通り劇的な再逆転を果たして勝利したわけだが、それまでの間、まったりと応援も盛り上がり、なかなか面白かった。
缶ビールを五本と勝利祝いのシャンパンをほんの少し呑んだだけなのだが、今日になってもアルコールが抜けず、頭が痛い。朝からずっと緑茶をガブガブ飲み、少しはマシになったものの、それでも頭の芯が疼いている。昔、保健体育の教科書だか何だかに宿酔いの模式図が載っていて、そこにアセトアルデヒドがコンペイトウの親戚のような姿で描かれていたが、これは実に的確な表現であるというべきで、ズキーンと痛みが走る度に脳の毛細血管を確かにトゲトゲの物体が通過しているかのような錯覚に陥る。
それにしても、どうにも酒に弱くなったようだ。せめて日本酒なら頭が痛くなるようなこともないのだが、花火大会にはビールが最適なのだから仕方がない。今日はおとなしくしていることにする。
最近不満な事。
Mac OS XのFinderが10.3になっても相変わらずどこかマヌケである。全体的には、10.0の頃に比べ、かなり良くなったと思う。Mac OS 9までのFinderよりも直感的でなくなった、ファイルの実在感がなくなったというような声は旧来のユーザーからちらほら聞かれるところであるが、またぼくもそれはその通りだとは思うが、一方で、ここまで膨大な数に膨れ上がったファイルを効率的に管理するには、やはりMac OS X方式のFinderの方が優れている。ClassicなFinderはシステムフォルダの中身がせいぜい十個という時代に設計されたものであるから、やはりそういうシステムを管理するように出来ているのである。
管理方式の優劣はともかく、PantherのFinderがマヌケなのは、カラム表示にしているときである。ご存知の通り、カラム方式では、テキストファイルや画像ファイル、ムービーファイルなど、既知の形式のファイルについてはFinderが自動的にプレビューしてくれる。してくれるのはいいのだが、ダブルクリックしてオープンする瞬間にも
わざわざファイルをロックしてプレビューしてくれやがるものだから、開いたファイルがしょっちゅう「書き込み不可」になるのである。ぼくの場合、開くのはテキストファイルがほとんどであるためか、このトラップにひっかかりやすく、実にイライラする。蒸し暑いものだから余計にイライラする。
Tigerでは治しておくこと。宿題である。
原爆の日である。たまたま朝から起きていたので、8:15に黙祷しようと思っていて、8:10まではじっとしていたのだがなかなか時計の針が進まず、暇を持て余してメールを書いたりなどしているうちに、油断して8:20になってしまった。仕方がないからそれから黙祷したが。
夜、金曜ロードショーで『天使にラブソングを』をやっていたのをちらっと見た。エンターテイメントとして作られているだけあって、誰が見ても楽しめるように出来てはいるが、あの作品を見て心の底から笑い、ホロリとするには、やはりキリスト教の文化的背景が必要であろう。もっとも、それはこの作品にのみ言えることではない。何だかんだ言って西洋社会はまだキリスト教の呪縛下にある。
どんな人間でも何かに対する信仰を持っているものだ。信仰とはいかないまでも、人間は常に精神的な拠り所を求め、また無意識に保有している。逆に言えばその拠り所に自身を縛りつけているのである。フロイトはそれをスーパーエゴと呼んだ。宗教ないし信仰は、スーパーエゴを形成するのに重要な役割を演じる。いわば全ての人間は自分の中に自分の神を持っているのである。
科学万能を信じて爆弾を造った研究者も、強いアメリカを信じて命令を下した大統領や軍人も、神州不滅を信じて生きた日本人も、皆一様に正しかったはずである。実際、その結果はエゴのぶつかりあいである戦争の終結につながった。不幸だったのは、その爆弾がちょっと強力すぎて、また厄介な置き土産を残していったことだ。
もちろん当時の人間は戦慄しただろう。言いようのない恐怖を覚えたことであろう。その恐ろしさは決して忘れていいものではない。だが一方で、力による恐怖を信じる人間も確実に存在する。従って、核兵器をただ恐れ、その恐怖のみを基本として廃絶運動を展開しても無駄である。左様な過激な人種をいたずらに喜ばせるだけだ。いずれ中東辺りに第二のヒロシマやナガサキが出来上がる。
といって、もちろん無関心であるのも良くない。大切なのは大量殺人が恐るべき罪深い行為であることを、力による正義を信じている連中も含め、人類全体のスーパーエゴで共有することだ。そのためなら核兵器という邪神を崇め、あるいは糾弾するのも、重要な意味を持ってくるはずである。
少なくとも我々一般人はもっと核兵器や原子力について知るべきであろう。この週末は
ウィキペディアあたりを深く読んでみてはいかがだろうか。
いろいろあって疲れたので(と書くと暗ぁい感じであるが、別にそんなことはない。文字通りの意味である)、GBASPを買った。GBASPなどと書くとまるでパソコンの部品かインターネット上のサービスのようであるが、ちっともそんなことはなく、ゲームボーイアドバンスである。一緒にFFTアドバンスを購入。
もっとも、購入といっても20,000ポイント近くたまっていた相方名義のルピーポイントを使用したので、一銭も支払っていない。ソフマップ様々である。
画面の真ん中にドット抜けがある以外は概して満足である。
ゲームボーイを所持するのは初代モデル以来だが、随分と進化したものだ。音やグラフィックも進化したが、何といっても携帯ゲーム機として非常に洗練された感がある。バッテリーの持続時間、インターフェース、どれをとっても素晴らしい。ソフトもスーパーファミコン並のクオリティを保っていて、これも素晴らしい。また、驚いた事に初代ゲームボーイ時代から現在までのほとんどのゲームボーイタイトルに対応しているらしく、これまた素晴らしい。
仕事の合間にちょっと息抜きにFFTアドバンスをやるのは、思っていた以上に手軽であるし、快適である。テレビゲームは遊ぶのに少し気合いを入れる必要があるが、ゲームボーイだとひょいと手を伸ばすだけで良く、この気軽さが子供たちにも受けているのだろうなどと思う。ゲームもスーパーファミコン時代くらいの、比較的軽めのタイトルが多く、これも気楽に楽しめる重要なファクターになっている。
何しろプレステ陣営は「ターゲットはある程度以上の年齢層」と言い切るほどで、端から子供向けでないばかりか、大人でも腰を据えてやらなければならぬゲームが多すぎる。ゲーム業界が斜陽だというのもこれでは仕方がないと思えてくるし、また一方でゲームボーイが絶好調なのもうなずける。任天堂はファミコン時代からエンターテイメントの何たるかをきちんと心得ている。子供に受けないものは大人にだって受けないのだ。
相方が使っているナナオの21インチCRTモニタがお亡くなりになった。多分、猛暑が原因であろう。
この機会に液晶化を推進する事にした。ぼくのモニタは既に液晶になっているので、対象は相方のG4と、Windows 2000やFreeBSDを動かしているPCの二台である。とりあえずPCの方は高性能モニタを繋いでも意味がないので、ロジテックの安いモニタにあたりをつけて、日本橋へ出かけた。
G4用のモニタは、当初シネマディスプレイを買う予定であった。液晶モニタの中では発色が最も落ち着いており、デザインをするにはシネマが良いらしいと聞いたからである。相方のG4はQuicksilverなので、最近のモデルなら大概繋がる。ところが、ハードウェア的には問題ないものの、ソフトウェア的には大いに問題があった。Mac OS X以降でなければ対応してない、というのである。相方はまだMac OS 9ユーザーだ。
Used Macコーナーを見ていると、古い機種、すなわち22インチのシネマディスプレイもあり、これはMac OS 9でも問題なく使えるようだったが、古いだけあってバックライトが暗くなってしまっている。かといって、Mac OS Xに移行するとなるとAdobeのCSも一緒に買わねばならず、大変な出費である。
結局、ぼくのと同じモニタ、ナナオのFlexscan L557を買うことにした。ADC-DVIコンバータはアップルの純正モニタ以外では動作確認が取れていないとのことだったが、これは別に何の問題もなく繋がった。いずれ相方の環境をMac OS Xに本格移行することになった暁には、CPUカードとCS、それからシネマディスプレイも買い、デュアルディスプレイの素晴らしい作業環境を構築するつもりである。
問題は、その時期である。ぼくはUnixを使うために早々に移行してしまったが、相方の作業では、Mac OS 9で何の問題もない。となると、G5を買う時だろうか。……ものすごい出費になりそうな予感。