善哉々々。美しきかな樽募金。我らが広島東洋カープに栄光あれ。
いろいろ考えた末、白林檎はPerlと一蓮托生なるべしと心に決めた。仕事では都合というものがあるから、PHPを今すぐきっぱり捨て去るというわけにもいかないが、自分の匙加減でどうとでも出来るものに関しては今後一切perlに任せることにする。
Webに関わる上で、PHPは確かに便利な言語だ。セッション管理はしてくれるし、Cookieも手軽に焼ける。MySQLとは親密だし、マルチバイト文字の扱いも簡単で、ほとんどの場合CGIよりも速い。HTMLの中に埋め込める上、テキトーに書いてもあまり怒られない。最初からWebページをターゲットにして開発されてきただけあって、実に効率が良い。
正直言って、こういった使い勝手の面では何の不満もない。むしろ開発者の方々にお歳暮を贈りたいくらいである。
だが、実行環境が頻繁にバージョンアップされるのが実に鬱陶しい。バージョンを上げなければセキュリティ的にマズいことが多いにも関わらず、バージョンを上げるとそれまで動いていたものが動かなくなることも有り得るのが、実にウザい。まだ発展途上だからといえばその通りで、その成長も充分評価に値するとは思うけれど、いくらなんでもこれでは付き合いきれない。
最近ミョーな形の墓石を作るのが流行っているという話を、ある人から先日聞いた。形はともかく、墓碑には、
#!/usr/bin/perl
my $year = 1978;
while (1) {
die "Thank you all :)" if ($year++ > 2178);
}
とでも彫ってもらうのも面白いかもしれない。
ところで、Perlにもバージョンがある。おお。接続詞から始めると筒井康隆のようだ。
で、Perlにもバージョンがあって、現在は5である。5というくらいだから、過去には4もあったし、1〜3もあったに違いない。ぼくは4からしか知らないので、それより前のバージョンについてはよくわからないが、Perl 4からPerl 5にバージョンが上がるにあたって、ものすごい進化の仕方をした。オブジェクト指向プログラミングの概念の導入である。
プログラミング言語にもバージョンがあるというのが不思議だという人も多いと思うが、厳密にいうと、バージョンが上がるのは言語ではなく、それを処理するシステムの方である。もっとも、それに伴って言語の記法に追加や変更が加えられることも多く、その意味では言語のバージョンも上がると言える。
言語と処理系の関係は、ちょっと語弊があるかもしれないが、喩えるならOSとアプリケーションの関係みたいなものだ。アプリケーションの箱をひっくり返してみると、必ず「対応OS」とか「システム要件」とかいった項目の表示があるはずだ。古いバージョンのアプリケーションは大抵新しいOSで動かすことが出来るが、その逆、つまり新しいバージョンのアプリケーションを古いOSで動かすことは出来ないことが多い。まあ、大体そんなところだ。
とにかく、Perlでもオブジェクトを使えるようになって、大変便利になった。さらにはものすごい数のモジュール──これも敢えて語弊をおそれずに喩えるなら、Webブラウザのプラグインみたいなものだ──が、世界中の有志によってメンテナンスされていて、「ちょっと複雑なプログラム」くらいのレベルであれば、CPANを回ってモジュールをいくつか拾ってくるだけで実現してしまうことも多い。
ただ、Perl 5では、実際には本当の意味でのオブジェクト指向が実装されているわけではなく、既存の機能を応用して実現しているので、JavaとかPHPとかRubyとかいった最初からオブジェクト指向で設計された言語と比べると野暮ったいというか、取り回しが面倒なところがあった。Perlらしいといえばらしいのだが、PHPに徐々に取って代わられつつある原因のひとつであることも確かだ。
それを解決すべく、Perl 6の開発が進められている。はずなのだけど、困ったことに、どうも進捗が芳しくないらしい。多分、世間のPerl使いがPerl 5で満足してしまっているからではないかと思う。必要は発明の母というが、その逆の状態に陥ってしまっているのではなかろうか。
一蓮托生と決めた以上、何か貢献出来ればいいのだが、この場合Perl 5を愛用していてもあまり解決にならないわけで。でも、まあ、世界の隅っこでPerlスクリプトを書き続けるのも、Perlの勢力を維持するのに必要なのかなあ、などとも思う。優秀な枯れた言語であるが故のジレンマと言えるかもしれない。
制作がひとつ佳境である。徹夜明けというか、徹夜中というか、まあそういう状態。軽く混乱気味の中枢神経が、何とかしてぼくを眠らせようと、敏腕スイマーを次々に送り付けてくる。ぼんやりした頭と、隣の部屋の猫のあくびを聞き取れるくらいに張りつめた感覚。アンバランスな高揚感は、無意識の海に足先を浸しているような気がして、なかなか悪くない。音楽を作っているときには心地よくさえ感じる。
ところで某氏よりフェチバトンなるものを頂いた。日付にして一週間近く遅れたが(mixiをチェックするのが月五回という間違ったペースなので)、
せっかくだから答えてみることにする。
ちなみにフェチといえばフェティシズムで、心理学の方面では(部分的な)異常性欲とか異常な執着とかいった意味で使われる用語であるが、日本では特に前者の意味で使われることが多いようだ。異常というくらいだから、このバトンに於いては、一般に性欲の対象とされている乳だの尻だのといった答えではなく、
可能な限りひねった回答が求められていると判断せねばなるまい。
■Q1■あなたは何フェチ?
タオル(本当)。
■Q2■異性を見る時、まず何処を見る?
髪。
■Q3■最近プッシュ出来る部位
ふくらはぎの一番盛り上がったところから膝裏に向かうライン。
■Q4■異性の好きな部位5つ
眼、下唇、耳、手指の爪もしくは指先、ニノウデ。
■Q5■フェチを感じる衣装は?
あまり奇抜な答えが浮かばなかったので、看護婦で。
■Q6■バトンを渡す5人
渡したい先が全部mixi内なので、
閲覧出来ない人もいるだろうから、
ぼくでストップ。
……ここまで書くのに30分かかっちゃったよ orz
軽く食事をしてから録音に戻ることにする。
吹雪いている。東京ではこの時期に雪が積もって自転車の車輪がズブズブとなって走れずに難儀することくらいザラであったが、大阪で12月に降雪があるのは極めて珍しいそうだ。今月に入ってからというもの、日本には大寒波が押し寄せている。その勢いたるや冬将軍どころではなく、冬元帥が三軍を率いて突進してきているかのようである。
話が変わるが、元帥といえば、近頃、ヤモリ元帥というのが(一部で)大活躍している。猫は中尉で、アシダカグモは軍曹。ヘビにアオダイショウというのがいるが、これはそのまま大将の待遇を受けている。何の事かというと、ゴキブリの天敵の序列である。
野生というか野良猫がゴキブリを食うのかどうかは知らないが、うちの猫でもゴキブリを追い掛け回すくらいのことはする。オモチャがわりに追い掛け回し、ついに動かなくなると興味を失う。駆除という観点からは便利といえなくもないが、中途半端な印象でもある。
一方、ヤモリ元帥以下アオダイショウ閣下やアシダカ軍曹は、ゴキブリの立派な捕食者である。従ってゴキブリのいるところにはこいつらが居住している可能性が高いし、逆に自宅でこいつらをよく見かけるということはゴキブリが多数棲息していることの証拠だということになる。人家の屋根裏には意外とアオダイショウの居ることが多いそうだが、細長いのが嫌いな方も、毒を持たぬこの大将閣下と遭遇しても驚かずにそっとしておくのが良かろう。
ゴキブリはもともと森林の昆虫で、つまり比較的南方に勢力圏を拡げる生物である。故に北海道には長く進出していなかったが、最近はちらほらと見かけることもあるそうだ。北限が北海道まで上がるとなると、相対的に大阪近辺にも南方の、より巨大な連中がやってくる可能性もあるわけで、そうなると非常に困る。この寒さがその波を押し返してくれたらいいのだが、あまり外が寒いと逆に暖かな人家に積極的に侵入してくることも考えられる。なかなか難しいところである。