三谷幸喜『みんなのいえ』を TSUTAYA で借りてきて鑑賞。相方が観たいと言ったからである。
この人の作品は以前に『ラヂオの時間』を観たことがあるが、他は知らない。テレビドラマも何本か手がけているとのことで、そちらも映画同様面白かったと相方は言っていた。しかしテレビドラマは滅多に観ない(というかまともに観たことのある作品は一本もない)ので、そちらはとんと縁がない。
「限られた時間と空間の中で展開されるコメディ」が真骨頂と評される三谷幸喜、要するにこの人の作品は舞台向けなんだろうなあ、と思ったりする。これまでの作品も舞台を前提に台本を用意したら、きっとより面白いものになるはずだ。といっても別に三谷さんの映画監督としての力量に疑問符を付けているのではなくて、『ラヂオ』も『みんなのいえ』も面白かった。しかしいずれも舞台風に作られているから、ぼくの場合、鑑賞するのに余分なパワァが要る。ので、あまり自分から進んで三谷作品を見ようとは思わない。見始めてしまえば楽しめるんだけど。
で、『みんなのいえ』であるが。
登場人物達が(例によって)少なからずエキセントリックなためにコメディに仕上がっているけれど、創造と制作の対立構造というテーマは仕事柄かなり興味深かった。キーとなる三人の男、放送作家と大工とデザイナーは、日常のそれぞれの制作現場でそれぞれの葛藤を抱えている。この日記は別に映画評論じゃないから細かくは書かないが、この映画に於ける家の新築現場は、つまるところ彼らにとって制作に対する葛藤から解放されうる唯一の場所として用意されているのである。エゴが強調して描かれるのもそのためだし、激しい対立が生まれるのもこれが原因だ。そして、だからこそ映画作品として成立しているといえる。
そういえば『ラヂオの時間』も創造者と制作者の対立がテーマであった。しかしあれはまさに舞台芸術で、映画の尺では人間模様が入り乱れすぎる。『みんなのいえ』の方が大分ストレートに楽しめた。
小難しいことを書いたが、要するに面白かったということである。ときどきはこういう小難しいことを書いておかないとアタマとユビサキがさび付くんである。
それから、ココリコ田中は漫才師よりもコメディ俳優の方が向いていることを発見。どうする遠藤。
運転にも少しずつ慣れてきた今日この頃、客先へ自動車で行く。道中は特に問題ないもののナビゲータが甚だ頼りにならず、周辺に着いてからどこに駐車したものか悩み、とりあえず路肩へ置いて相方がお客さんに聞きに行った。すると、すぐ前の歩道が車を置ける感じに広くなっているので、そこへ止めたらいいとのこと。ぼくが逡巡していると、そのお客さんは自動車の専門家で、「ぼくが入れよか」と言うや否やあっというまに車を回し、ものの見事に駐車してくださった。
帰途、夕食をどこかでとろうということになり、こういうときの常としてぼくたちは回転寿司屋へ行くのであるが、道沿いにある店は長蛇の列が出来ていたし、別の店は反対側の道沿いだったしで、結局入れず、近くまで帰ってきてからファミレスへ。実はちゃんと駐車できるかどうかものすごく不安だったものの綺麗に入り、しかも最難関である自宅の駐車場でもほぼ一発で成功。おお。ぼくも案外進歩してるじゃないか。
しかし最近よく車関連の悪夢を見る。ぶつかったり何かの違反で白黒の車につかまったり、ことごとく縁起が悪い。ユングによれば夢は無意識からの警告であるということだが、きっと慢心するなという戒めなんだろうなぁ。何しろ昨日は少し擦ったからな、中央分離帯の辺りにあるあの縞々のゴムか何かで出来ている棒に。桑原々々。
相方の父親が退院されるので、病院まで車を出した。病院は隣の市にあって距離的にはなかなか近いのだが、電車でいくと恐ろしく大回りになる上に運賃が不当に高い。一度自動車でお見舞いに行ったら拍子抜けするほど近かったので、荷物も多いことだし、今日は総出でお迎えに行ったわけである。
退院は大抵午前中のイベントである。しかも 10:00 から栄養士による食餌療法の説明があるとかで、なかなか慌ただしい。さらに今日は月初めで、道路は仕事の車で殺気立っている。制限速度 50km/h の道をビュンビュンと飛ばす車ばかりで、流れにのるとぼくもスピードを出さざるを得ない。最初は恐かったが慣れるとどうということもなく、一時は時速 700km を記録したほどだ。
しかし病院まであと五分というところで渋滞に捕まり、少々遅刻してしまった。まあ話はあらかた聞けたようなので大丈夫だろう。栄養の話などぼくが聞いてわかるはずもないので、松井のデビュー戦をぼんやりと眺めながらしばし待っていた。その後テレビにも飽きたので、ナースステーションで看護婦としばし談笑。
それにしても今日から新年度である。ぼくの弟も今日から社会人、会社勤めの身となる。ぼくはあまり社会人の自覚がなく、なにしろ就職はおろか就職活動すらしたことがないからなのだが、かような状況で弟が就職すると何だか不思議な気分だ。そういえば赴任先はどこなんだろうな。ロンドンあたりだったら夏に遊びに行くのだが。
というわけで、ホラを全て判別できたら百円進呈。
しょっちゅうお世話になっている徒歩一分のコンビニ、セブンイレブン。ローソンのからあげ君にあたるホットスナックとしてセブンイレブンではフランクフルトやアメリカンドッグを置いているのだが、ぼくの行くこの店では、先日来これらを調理前の状態五本セット袋詰めで販売している。で、これを買うと、今なら星野阪神のポスターがもれなくもらえるという微妙なキャンペーンを実施中。
買いました。 別にタイガースファンじゃないけど。
あいかわらず忙しい白林檎である。まったくもう、どれくらい忙しいかというと、日記を書く暇すらないくらい忙しいのである。今日は書いてるけど。
来る日も来る日もプログラミングである。こうプログラムばかり組んでいればスキルが上がりそうなもんであるが、まあちょっとは手応えはあるけれど、あまり格段に技術が向上したとも感じられず、なかなかじれったい日々を過ごしている。
開戦から一週間、米国連邦議会ではもう戦後復興をどこの企業にまかせるかなどというタコな議論をしているそうである。候補に名を連ねるのはいづれも不況にあえぐアメリカの大企業ばかり。中には現政権の副大統領がかつて CEO をしていた会社もあるというから、これが茶番劇でなくて何であろうか。こういうのは民主主義ではない。利己主義というのである。
アメリカはぼくが生まれた頃からすでに貧富の格差が問題になっていたが、現在はそれが縮まるどころか広まる一方だそうだ。過度の実力主義のおかげで、会社を立て直すほど「能力のある」経営者は莫大な額の報酬を得る一方、その戦力として日夜働いている一般従業員は、ほとんど昇給ナシに近い。こうしたいわば資本主義的貴族階級がのさばっている社会制度や、自国の利益のみを追求する対外政策を見れば、フセインならずともアメリカをして帝国主義と呼びたくなるのも当然だ。
ただひとつ進歩的なのは、この帝国の皇帝が民主的な手続きを経て選出されるところだろうか。もっとも、そうは言ってもこれはあくまで国内的なメリットなのであって、外国から見ればはた迷惑な暴君であることに変わりはない。
小泉さんも答弁が苦しいわけである。板挟みだもんなぁ。