何か知らんが暖かくなったと思ったら早速蚊が飛んでいる。一体、この街はどうしてこんなに蚊が多いのか。ぼくのスーツは春、秋、冬のスリーシーズン着られるタイプのものだが、ここに棲息する蚊は春、夏、秋のスリーシーズン対応で、随分先進的といおうか、憎たらしいといおうか。日本で一二を争う汚染度を誇る川が近所にあるからだろうか。
そういえばこの川、ときどき水面が虹色に反射していて、どこかの工場が排水を流すか何かやらかしたのだろうと思っていた。しかしゆっくり考えてみると、これはボウフラ駆除のための油膜ではなかったろうか。水面に油膜を張ると、油膜の下に空気が通らなくなる。お茶が酸化しないのと同じ理屈で、ボウフラを窒息させようという魂胆なのではないかと思うのだが、まあどうでもよろしい。とにかくこの蚊を何とかしてくれ。
ぼくは蚊が嫌いである。別に蚊という昆虫自体は嫌いではないが、血を吸ってやろうと身辺で様子を伺っている様子や、寝ているときに耳元をプーンと飛ぶ迷惑極まりない行動などは、末代まで祟っても祟り足りないくらい憎たらしい。特に耳元を飛ぶの、あれ本当に何とかならんか。眠っていても一発で目が覚めるのだが。血を吸う蚊は産卵期のメスのはずだから、こいつらを片っ端から叩き潰すなり蚊取り線香で落とすなりすれば、多少なりとも蚊が少なくなるのではと、アホなことまで考えてしまうほど辟易しているのである。
今日はほぼ徹夜明けで客先に行っていたから、頭フラフラ体クタクタなのであるが、蚊が耳元を飛ぶおかげで何度も夜中に目が覚めた。仕方がないからこうして日記を書いているというわけだ。
畜生、明晩はベープか何かを引っ張り出してきてやるからな。見ておれ。
ビデオ編集にはかなり慣れてきたが、ビデオのマスタリングやダビングに関してはまだまだ未熟であるなぁ、と感じる今日この頃。ようやく一仕事片付いた。苦労しただけあってダビングテープの品質も良い。内容に関してはぼくはほとんど手を出していないが(口なら少しだけ出したのだが)、相方が頑張っていたので、なかなかよい仕上がりである。
それでもなかなか〆切ラッシュは終わらない。今日も一件せっつかれた。そろそろ一人くらい助っ人がほしいところである。しかしそれには資金がいるからなぁ。雇ったらおいそれとは辞めさせられないだろうし。
そういえばいつの間にか野球が開幕している。広島も阪神も絶好調ということもないが、不調ではないようだ。メジャーも始まっているようで、いや、松井はすごいね。大したものだ。デビューも鮮烈だったし、その後の活躍も素晴らしい。頑張れ。
ようやくイラク戦争が終わった。フセイン大統領の銅像が引き倒されるシーンはまさに歴史の教科書的な感動を秘めている。イラクという国にとっては明らかに時代の節目といっていいが、その犠牲は大きすぎたのではないかと今でも疑問だ。
さてフセイン大統領であるが、生きているのやら死んでいるのやら。ビンラディン氏といい、どうもアメリカ、というかブッシュ政権は詰めが甘い。そんなザマで目的が別の所にあったのかと勘ぐられても知らないぞ。
何にしても、終わって本当に良かった。人類に栄光あれ。
三谷幸喜『みんなのいえ』を TSUTAYA で借りてきて鑑賞。相方が観たいと言ったからである。
この人の作品は以前に『ラヂオの時間』を観たことがあるが、他は知らない。テレビドラマも何本か手がけているとのことで、そちらも映画同様面白かったと相方は言っていた。しかしテレビドラマは滅多に観ない(というかまともに観たことのある作品は一本もない)ので、そちらはとんと縁がない。
「限られた時間と空間の中で展開されるコメディ」が真骨頂と評される三谷幸喜、要するにこの人の作品は舞台向けなんだろうなあ、と思ったりする。これまでの作品も舞台を前提に台本を用意したら、きっとより面白いものになるはずだ。といっても別に三谷さんの映画監督としての力量に疑問符を付けているのではなくて、『ラヂオ』も『みんなのいえ』も面白かった。しかしいずれも舞台風に作られているから、ぼくの場合、鑑賞するのに余分なパワァが要る。ので、あまり自分から進んで三谷作品を見ようとは思わない。見始めてしまえば楽しめるんだけど。
で、『みんなのいえ』であるが。
登場人物達が(例によって)少なからずエキセントリックなためにコメディに仕上がっているけれど、創造と制作の対立構造というテーマは仕事柄かなり興味深かった。キーとなる三人の男、放送作家と大工とデザイナーは、日常のそれぞれの制作現場でそれぞれの葛藤を抱えている。この日記は別に映画評論じゃないから細かくは書かないが、この映画に於ける家の新築現場は、つまるところ彼らにとって制作に対する葛藤から解放されうる唯一の場所として用意されているのである。エゴが強調して描かれるのもそのためだし、激しい対立が生まれるのもこれが原因だ。そして、だからこそ映画作品として成立しているといえる。
そういえば『ラヂオの時間』も創造者と制作者の対立がテーマであった。しかしあれはまさに舞台芸術で、映画の尺では人間模様が入り乱れすぎる。『みんなのいえ』の方が大分ストレートに楽しめた。
小難しいことを書いたが、要するに面白かったということである。ときどきはこういう小難しいことを書いておかないとアタマとユビサキがさび付くんである。
それから、ココリコ田中は漫才師よりもコメディ俳優の方が向いていることを発見。どうする遠藤。
運転にも少しずつ慣れてきた今日この頃、客先へ自動車で行く。道中は特に問題ないもののナビゲータが甚だ頼りにならず、周辺に着いてからどこに駐車したものか悩み、とりあえず路肩へ置いて相方がお客さんに聞きに行った。すると、すぐ前の歩道が車を置ける感じに広くなっているので、そこへ止めたらいいとのこと。ぼくが逡巡していると、そのお客さんは自動車の専門家で、「ぼくが入れよか」と言うや否やあっというまに車を回し、ものの見事に駐車してくださった。
帰途、夕食をどこかでとろうということになり、こういうときの常としてぼくたちは回転寿司屋へ行くのであるが、道沿いにある店は長蛇の列が出来ていたし、別の店は反対側の道沿いだったしで、結局入れず、近くまで帰ってきてからファミレスへ。実はちゃんと駐車できるかどうかものすごく不安だったものの綺麗に入り、しかも最難関である自宅の駐車場でもほぼ一発で成功。おお。ぼくも案外進歩してるじゃないか。
しかし最近よく車関連の悪夢を見る。ぶつかったり何かの違反で白黒の車につかまったり、ことごとく縁起が悪い。ユングによれば夢は無意識からの警告であるということだが、きっと慢心するなという戒めなんだろうなぁ。何しろ昨日は少し擦ったからな、中央分離帯の辺りにあるあの縞々のゴムか何かで出来ている棒に。桑原々々。