N さんが導入されてとても快適であるとの話を聞き、それでかねてから使ってみたかったリムーバブル HDD ケースというものを購入。ついでに 40GB の HDD も買ってきた。締めて 10,000 円也。だが慌てて交換用トレイを追加で買うのを忘れていたので、近々 Sofmap.com か何かで注文するつもりだ。
PC を使っている人には信じがたい Mac の特徴のひとつに、起動ディスクを自由自在に変更できる、というのがある。HDD を二台積んでいようが三台積んでいようが、また一台を複数のスライスに分けていようが、それぞれにシステムをインストールしておけばいつでも何の苦もなく起動システムを変更できるし、それどころか同じスライスに複数のシステムをインストールしても (Mac OS 9 以前なら) 何の問題もなく動作する。これは Mac が他のシステムに自慢していい長所だと思う。
で、標準ではそんな芸当ができない PC で何とか複数のシステムを使いたいと思ったら、ある程度の知識とテクニックが必要だった。PC にその手のユーティリティが多い (というか Mac にはそもそもそんなユーティリティがないのだが) のはそういう事情があるんだろう。だが、しかし、このリムーバブル HDD というのは実に画期的である。Mac と同じかそれ以上の手軽さで起動システムを変更できるのだ。
あ、ふと思ったんだけど、ディスクを入れ替えて起動するシステムを変更するこの感覚、何かに似てると思ったらアレだ、DOS だわ。そう考えると DOS って手軽だったんだなぁ。
福猫展というのを観に行ってきて、そこでちょうど手にしっくり来るぐい飲みがあったので、購入。600円也。また、相方の父上にマグカップも買っていただいた。こちらは取っ手が面白い形になっていて、飲みやすい。
福猫展というだけあって、他にも様々なものが置いてある。猫用品は何一つ置いていないが、猫をあしらった工芸品の数々が、所狭しと土間や座敷を埋めている。会場は民家をそのまま解放しているような場所で、陶器や木工細工がよく映えていた。どの作品にも作家の個性が滲み出ており、なかなか飽きない。流石に巧く仕上げてある。
折角ぐい飲みを手に入れたんだから、久しぶりに旨い地酒でも飲みたいな。一合くらいでいいんだけど。
手元に程良い長さの MIDI ケーブルがないことに気が付いて、夕方から天王寺へ行ってきた。夕食も兼ねるつもりだったので、相方同伴である。
駅に着いた辺りで確か今日から Power Mac G5 の店頭展示が開始だったぞと思い、MIDI ケーブルそっちのけでソフマップを覗く。と、ありましたよ。ありました。あのいぶし銀の筐体が。メルマガにはあんなことを書いたが、実はちゃんと見てきたのである。まあ発行した後出かけたので、これについてはご了承願いたい。
Power Mac G5 は予想していたより随分大きなマシンだ。幅は変わらないが、高さは G4 よりもあるのではないだろうか。その分空気の動きをよくしているということなのだろうか。前面は、なるほど改造されたミニ四駆のように穴が空いている。中が透けて見える。大きなファンがゆっくりと回転している。
しかし、この通気口はさほど気にならず、むしろうまくデザインに溶け込んでいると感じた。アップルのデザイン部門、久しぶりにいい仕事をしている。全体的にシャープな印象の筐体だ。速度は、よくわからなかった。まあデスクトップピクチャにエフェクトをかけながらもストレスなく Finder 操作ができたから、すなわちそれが速さの証なのかもしれないけど。
巷で噂のフジテレビ「トリビアの泉」を鑑賞。どのような番組かについては相方から聞いて一応予備知識があったのだが、いざ見てみると、これがいかにもタモリの番組であった。ひとことで感想を述べるなら
へぇ〜 という言葉に尽きる。こういういい意味でバカな番組は好きだ。それに、案外面白いネタも扱っている。
この番組で使用されている例のボタンが、バンダイから発売されるそうである。一体何に使うのか知らないが、パーティグッズとして売り出すというくらいだから、学祭シーズンやクリスマスシーズンの需要でも見込んでいるのだろう。内輪での噂話暴露大会とか。「○○と△△は高校のときから密かに付き合っている」「へぇーへぇーへぇー」「28へぇ獲得」なんてシチュエーションが本当にありそうでイヤだな。
生まれた子猫が一匹、一週間と経たずに亡くなってしまった。新生児溶血というのがその原因のようだ。調べてみたところ、これは病気ではなく、母子の血液型の組み合わせで起こる血液不適合らしい。
それほど珍しい事例でもないようだ。そして、仕方のないことでもある。それでも、何か出来ることがあったのではないかとか、せめてもっと早くにこのことを知っていればと思うと、悔しくてならない。必ずしも防げないものではないようなのである。かわいそうなことをした。
近々どこかへ埋めてやるつもりでいる。名前もないまま消えていくのも寂しいから、ソニアと名付けた。別に本人がこだわるわけもないのだけれど、そう名付けた。
残った子猫たちはちゃんと育ってほしいと思う。何しろ母猫がいかにも頼りないのである。初産だから仕方ないのかもしれないけど、野良だったら初産だ何だと言っていられないわけで、そこは飼い猫の性なのかもしれない。となれば、足りないところを補うのは、飼い主である人間の責任だ。
生命は不思議で、そして重い。さようなら、ソニア。