昨日、F、Tご両家の結婚式とその祝賀パーティに出席した。新郎のT.F.とは高校以来の友達である。新婦のMさんは、「新郎御友人」として列席した他のほとんどの連中同様、ぼくにとっては未知の女性である。と思っていたら、式の後でMさんに「大学の頃に、一度ご挨拶して以来ですよね(白林檎註:多分バンドの練習のときかステージ本番の後であろう)」と言われ、とりあえず何食わぬ顔で「そうですね。おめでとうございます」と返しておいたが、その実、背中では冷たぁい汗が幾筋も流れていた。
チャペルで挙式後、いわゆる披露宴は催されず、新郎新婦とそのご親族ご一同だけで会食をしたようだ。その間、我々はテキトーに時間を潰し、夕方から祝賀パーティが始まった。
式もパーティもとにかくめでたくて、またドラマチックであった。ぼくも二人を心から祝福し、かつその場に集まった昔からの友達と話に花を咲かせていたが、いつの間にか結婚していたのが何人かいて──ぼくは携帯電話をいきなり解約したり新しくしたりしたために音信不通となり、誰を経由しても連絡が取れなかった由。なのでこの機会に可能な限り多くの友達と電話番号を教えあったのだが、そのせいかあっという間に電池がなくなった──心底驚かされた。もっとも、驚愕というキーワードで言うならば、ぼくが列席したことが最大のサプライズだったらしい。
パーティの後は時間に余裕のある連中で集まって、三次会へとなだれ込んだ。この三次会というのがつまり酒宴で、流石に昔のようなバカ飲みはしなかったけれど、皆本当に雰囲気が変わっておらず、何だか気を抜いたら涙が出そうだった。もちろん言葉のアヤというヤツである。
とはいうものの、今振り返ってみるとかなりの量を飲んでいたようで、今日は朝から頭が重い。色々思うところはあるのだが、とりあえず今日のところはこれくらいで筆をおくことにする。
macromedia STUDIO 8日本語版が先日発売された。おちおちしているとFlash MXからアップグレード出来る製品がなくなると思って、早々に購入したのだが、どうもマクロメディアのアップグレードポリシーが変更になったようで、Dreamweaver 3からでも可能なようである。それなら、うちではアップグレードパスが計2本あることになる。とりあえずはいいけど。
主な目的はFlash Pro 8へのアップグレードである。それならFlash Pro 8のアップグレード版を買えば良さそうなものだが、どういうわけだかSTUDIOとの価格差がほとんどなかったので、折角だからSTUDIO 8にした次第。で、折角買ったのだからということで、Dreamweaverを使ってみた。
ぼくはmiとFinderとFetchがあれば満足な人間である。正確に言うと別に満足している訳でもないのだが、これ以上に使いやすい環境に巡り合ったことがないので、現状では左様な環境で作業している。WYSIWYGエディタはコードが美しくないばかりか使い勝手もよろしくないので、まともに利用したことは一度もない。
今回の場合も、WYSIWYGエディタとしての機能は、DWに対してまったく期待していない。テキストエディタをタブで管理出来たり、サーバとのやりとりが大変楽であるという評判を聞いたので、専らそういうツールとして利用しようと思っている。
当初はテキストエディタが手に馴染まず苦労したが、慣れるとこの上なく快適だ。テキストエディタ自体の出来はまあ普通というか、正直miの方が使いやすいと思うが、サーバとのやりとりを半自動化出来ることの恩恵は、思った以上に幸せな感じである。やるじゃないか、マクロメディア。DW3のタコさから比べるとまさに隔世の感がある。
と、まあ快調に使っていたのであるが、PHPを書き始めると途端に問題にぶつかった。半角の\が全角¥に勝手に変換されてしまうのだ。設定を都合53回ほど虱潰しに調べたが、関連する項目が見当たらない。いい加減イライラしてきたのでGoogle様にお伺いをたてると、
DW MX 2004の頃からのバグだそうだ。しかも、この回避方法はどうもDW 8だと無効っぽくて、さっきからもう何時間も円マークと格闘している。
アホか。メジャーバージョンアップなんだから、とっとと直しとけ。
気付いたら今月はちっとも日記を書いていなかった。なかなか珍しいことだ。きっと日記の神様が出雲に出張なさっていたのだろう。
急に寒くなったおかげで、ぼくも猫も風邪をひいてしまった。うちの猫達は毎年この時期になると決まって風邪をひく。順番にひいてまわる。不思議なことに、二匹以上同時にひくことがない。一匹だけがくしゃみをしていて、他の七匹は平然としている。かと思うと、昨日まで元気だった猫が、今日になると風邪をひいている。くしゃみをしていた猫はケロリとしている。
今週末、関西オープンソース2005が開催される。例年通りユーザー会も出展するので、ぼくも例によってブースへ手伝いに行く。今年は大学生のT.N.君が中心になって頑張ってくれている。OpenOffice.orgは2.0の英語版が正式リリースとなり、日本語版もしばらくしたらリリースされるはずである。OOo2.0になってさらに洗練され、いよいよ一般ユースではMS Officeが不要になりそうだ。
今年は五年に一度の国勢調査の年である。そのことをつい先日知った。西暦で五の倍数になる年に行うのがいかにも日本らしい。
ぼくはまがりなりにも一世帯になるらしく、今回始めて記入することになった。記入することになったのは良いのだが、自分の名前を記入し、引き続いて性別の項目をマークしたところで自分のマークシート記入能力に絶望し、以降は相方に代筆を依頼した。平たく言うと、マークシートの丸印をうまく塗りつぶせないので、相方に代わりに塗ってもらったのである。総務省はマークシートなどという非合理な入力方法はさっさと廃止してはどうか。小耳に挟んだところでは大学入試センター試験に於いても答案はマークシートで出すことになっているとかいうことであるが、鉛筆で丸印を塗りつぶすのが不得手な受験生などは概して損をしていると思う。それとも大学受験予備校では、そういった練習も含めて授業を開講しているのだろうか。
閑話休題。
国勢調査票はそれほど項目が多くなく、本当に純粋に統計のためだけに行っているのだな、と実感される。何だか盛り上がりに欠けるのも仕方がないような気がする。国勢調査を盛り上げようという気概が、調査票から伝わってこないのである。国政の基盤となる統計調査なのであるから、もっとこう、記入したい、記入しないと気が済まないと思わせるような、魅力的な調査票であって欲しいものだ。
また、項目がこれだけでは、大多数が調査結果にあまり興味を惹かれなさそうだ。左右の別とか宗教の違いとかいった枠組みに関係なく、自国の情報に無頓着であるのは、近代的民主国家に起臥する国民としては色々とマズいと思うのだが、どうだろう。この意味でも、国勢調査をせめて衆議院総選挙と同程度には盛り上げた方が良いような気がする。
例えば、集計項目をもっとバラエティ豊かなものにするのである。「主食は白飯派? パン派?」とか「コーヒー派? お茶派?」とか「尊皇派? 攘夷派?」とかいった項目を追加して、十月一日の回収日に即日集計を行い、政府広報並びに内閣官房長官発表で「平成十七年度国勢調査ニ拠レバ日本国民ノ六割ハ各種茶類ヲ愛飲ス」などと結果を仰々しく告示するのである。NHKの夜の7時のニュースではニュース解説員が大真面目に調査結果の予測と分析を行い、民放各局は全国各地の御飯党やパン党、甘党、辛党、ビール党から日本酒党各派に至るまで、ありとあらゆる党派の有力者を中継し、その様子をぼくはコタツで猫と戯れながらテレビで眺めるのだ。
……冗談で書いていたのに、本当に見てみたくなった。
とにかく、あまり実際的なことばかり黙々と集計し、淡々とデータを積み上げていくだけなのも如何なものかと思う。国民が「日本」という共同体を多少なりとも意識するせっかくの機会なのだから、行政はそれを最大限に利用するべきであろう。少子高齢化傾向に有る人口の変動グラフを提示したとき、それが「興味のある調査結果の一部」であるか「興味のない調査結果の一部」であるかによって、それを見る者の心証はかなり違ったものになるはずだ。少なくとも「少子化でヤバいから、もうちょっと子供を産んでください。育児支援は増やすから」と単に言い続けるよりも、いくらかマシな展望が開けることと思う。
なんでも今年の前半は死亡率がついに出生率を上回り、人口の減少が確認されたのだそうだ。国勢調査によってもうちょっと詳しい実情が浮かび上がってくるだろう。色々書いたが、個人的には、育児支援や年金制度等の福祉政策にダイレクトに響くであろう調査結果に、実のところ少なからぬ関心を持っている。
結果がいつどのように発表されるのかを知らないのが困ったものだが。
来年の元旦に閏秒が1秒挿入されることになったそうだ。閏秒というのは閏日の子分みたいなもので、地球の自転と人間が使用している時刻とのずれを秒単位で修正するためのものである。閏日は4年ごとだが、閏秒は特にそういうのが決まっているわけではないようで、今回は7年ぶりの挿入になるという。こういう話を聞くと宇宙と自分が突然ダイレクトに繋がったような気がして、少なからぬ感動を覚える。
対して自然を身近に感じることは日常的にある。環境音だとか風の湿り具合だとか、そういったものに季節を感じることが出来る。台風が近付いてくれば家に篭もって通り過ぎるのを待つしかなく、こういうときはちっぽけな人間存在とかいうことに考えが及ぶ。もっとも、今年の14号はノロノロと進むうち次第に勢力が弱くなり、あまつさえ日本海方面へと進路を変えてしまい、何だか拍子抜けしてしまった。
それでも九州や山陰では結構な被害が出たようだし、3%の貯水率で深刻な渇水に悩まされていた早明浦ダムが24時間で満水になったそうで、やはり自然の影響というのは大きいものだと実感した。
アメリカ南部を襲ったハリケーン「カトリーナ」の被害は、影響どころでは済まない規模になっている。一次被害の段階で死者が数百人、避難先での感染症や衰弱に因る死者が数千人、さらに援助物資が来ると文字通りの争奪戦となり、ここでも死者が出ているという。掠奪、強盗、強姦、殺人は日常茶飯事、それらを取り締まるために犯人の射殺も躊躇なく行われているというから、まさに非常事態だ。おまけに水を抜き始めてみたら、どこぞの川から多数のワニが流れ着いて被災者の遺体を漁っていたといい、ここまで来ると最早想像することすら困難である。
自然の対義語は文明ということになるだろうか。中国の影響下にある東洋文明は自然と調和し、メソポタミアに端を発する西洋文明は自然と対立するということがよく言われるが、その思想の違いは、例えば神話や伝承に見ることが出来る。最も顕著にして有名なのが龍とドラゴンの比較である。
龍とドラゴンはどちらも水にゆかりの深い存在で、もっといえば河川の象徴である。しかしその立場は随分と違う。東洋の龍は神様で、非常に高貴な存在とされた。「龍のような」といえば最大級の賛辞となるし、中国では龍のあしらわれた文物は皇帝とその周辺の人間にしか使用・着用を許されなかった。
一方、ドラゴンは完全に悪役である。悪役どころか悪の総元締めのような存在である。ファンタジーなんかだとときどき善玉ドラゴンも登場するが、わざわざ「善玉」とか「善き」とかいった修飾句が付くくらい希有な存在で、大抵は人間を困らせ、苦しめる、最大にして最強の敵として描かれる。その代わり、ドラゴンは莫大な富を隠し持っていて、鎮めることが出来た人間はそれを手中にすることを許された。
この違いは、治水や水害の捉え方の違いであるといって大過なかろう。どちらが優れているかなどをここで論じるつもりはないが、カトリーナによる被災地の写真を見ていると、西洋人が水の害を悪魔の業と為したのも蓋し当然のように思われてくる。
アメリカ南部を襲ったドラゴンを退けたとき、彼の地に幸いの訪れることを願って止まない。
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