白林檎ベースステーション

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白林檎的日常

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2004.1.4

 世間様は明日から仕事始めということになっているが、ぼくなどは二日から作業を開始しているので、あまり関係がない。平日も祝日もない生活を普段からしていると、正月から作業をしていてもそれほど気にならないから面白い。

 ただ、不都合なこともある。年末年始で整骨院が休業しているおかげで、首も肩も背中も腰も、片っ端から凝り固まっている。以前はこの状態に慣れていたのだが、一度ほぐしてもらうとたまらない。肩が重く、腰がギシギシいうのはどうにも辛い。明日はきっと整骨院も開くだろうから、早速行って来ようと思っている。雨が降らなければ。

2004.1.5

 ぼくは料理はできないが、味にはとことんやかましいという、料理をする方にとっては最も鬱陶しい部類の人間である。もっとも、ドレッシングくらいなら自分で調合する。これは相方にもそれなりに評判がいい。そのかわり包丁を使わせると目も当てられぬ事態となるので、まあ料理に限ってはほぼ能無しの烙印を押されても仕方がない。あ、ご飯は炊けるな。ひとりで生きていかなければならなくなっても、米さえあればなんとかなりそうだ。

 料理以外にも、家の中の仕事にはいろいろなものがある。掃除洗濯洗い物、猫の世話から仔猫の世話まで、それこそ山のようにある。しかし、こちらでもぼくはとことん役に立たない。掃除機くらいはかけるが、洗濯をさせれば洗剤の量をいちいち聞きに行く始末だし、洗い上がったものを干すにもやたらと時間がかかる。タオルを畳むのも下手だし、洗い物くらいと思っても、これも結局相方がやった方が手際が良い。つまるところ家事に関しては 猫の手ほどの足しにもならぬ のである。

 しかしながら、風呂を入れることに関してだけは、ぼくの方が上だ。具体的にどう上かというと、湯加減を自在に調節するという点において、相方はぼくの比ではない。それで大体十回に八回はぼくが湯を張りに行く。湯を張る前に、湯船をざっとシャワーで流すのだが、そのときに得も言われぬ爽快感がある。これが噂に聞くところのマイナスイオンという奴だろう。マイナスイオンは体に良いそうだ。

 イオンというからには、プラスのものだって存在するに決まっている。シャワー、というか流水からマイナスイオンが発生する理屈は知らないが、イオンが身近でごく簡単に発生することの証左にはなろう。それならば、この日常では、あるときふとしたことでプラスイオンが発生することだってありそうだ。そのとき、そのプラスイオンが体にどのような影響を及ぼすのか、やはりマイナスの反対なんだから健康に害を為すのかと、そんなことを考えながらぼくはシャワーで湯船を流すのである。

 こういうことを書く日は、大概大したことが起きなかったと考えてよろしい。

2004.1.6

 長野県知事の田中氏が県名を信州にしようとか企んでいるらしく、新春早々バカニュースが飛び交っていて楽しい限りである。○○県とするつもりなら信州ではなく 信濃 にするのがスジだと思うのだが、その辺についてはどうお考えなのか、是非ともお聞かせ願いたいものだ。作家先生ともあろう者がまさかその程度の知見も持ち合わせずに信州々々と騒ぎ立てているわけでもあるまい。

 この程度のバカニュースだけなら正月だなぁと笑っていられるのだが、どうも年明け早々物騒というか不景気な事件が多く、何だか今年も日本はダメそうだなという暗澹たる気分にさせられる。年が越せないからと年末に強盗だ何だと犯罪が増えるのは世の常だが、年が明けてからも頻発しているとは、何とも憂鬱な話である。いっそお年玉と称して国民ひとりひとりに一定額を配って回ってはどうか。その財源はどうするかというと、中央省庁の余剰予算を回すのである。つまらぬ道路工事などで消化するより、ずっと喜ばれるに違いない。

2004.1.7

 新春世界林檎博覧会 が開催中である。まったく、スティーヴはすぐに人の物欲を刺激するので困る。

2004.1.8

 これといって面白いことも起きないので、久しぶりにコンタクトレンズを着けてみた。

 ぼくの右目は純然たる近視であるようだが、左目にはこれでもかというほどの乱視が入っており、とてもではないが裸眼で視力検査に望む勇気など沸いてこないほど視力が落ちている。おそらく、まともに測定したら 0.1 もないだろう。当然、眼鏡が手放せないわけだが、左目についてはもはや眼鏡ではあまり矯正出来ていないという、とても困った状況にある。もっとも、両目ではちゃんと見えているので、自動車の運転に支障はない。念のため。

 ところが、と書いて思い出したが、この「ところが」という接続詞を最も巧みに使用する作家は北杜夫であると思う。何の本だったかちょっとすぐに出てこないのだが、確かエッセイの中に書かれた会話に「ところが、ぼくはそうは思いません」というのがあって、初めて読んだ時からこれは「ところが」中の白眉であると感動したものだ。言うまでもなく「ところが」は逆接の接続詞であるわけだが、ただ逆接にしたいだけなら「だが」とか「しかし」とか、いろいろな語がある。もちろん様々な語が存在するにはそれだけの理由があるわけで、「ところが」とそれ以外の逆接接続詞との間には、決定的な差がある。「だが」「しかし」が割と平坦な逆接であるのに対し、「ところが」には驚きとか予想外といった要素が含まれているのだ。もう一度先程の例を使おう。平坦な逆接を使うと、この文は「しかし、ぼくはそうは思いません」となる。ごく普通の会話文である。ところが、ここに「ところが」を使うと、えっ、ナニ、そうなのっ? という空気が行間に生じ、途端に躍動感が増すのである。故に、この会話文は「ところが」中の白眉だと思うわけである。

 あれ。何の話をしていたんだったか。そうそう、左目のことだった。

 その左目であるが、コンタクトレンズだと素晴らしく見えるようになるから不思議なのである。ので、できればコンタクトレンズで生活したいのだが、如何せん慣れぬうちは異物感がひどい。徐々に慣らしていこうと思い、今日は二時間足らずでさっさと外してやった。明日はもうちょっと長時間の装着にチャレンジしてみよう。