白林檎ベースステーション

白林檎ベースステーションは、林檎系個人サイトです。つまり、アップルコンピュータ社の Macintosh の中途半端マニアがうだうだしているだけのサイトです。得るモノ? 他人にそんなものを求める根性は間違っています。まあ、まったりと日記などをお楽しみください。

白林檎的日常

トップページに戻る  白林檎にメール

日記オプション



2004年12月
2
3
5
7
8
9
11
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31



2005年1月
1
2
3
4
5
6
8
9
10
11
13
14
16
17
18
19
21
22
23
25
26
27
29
30
31

2005.1.3

 謹賀新年。

 今年の初詣は橿原神宮へ。もう三日だから大分空いているだろうと思ったのだが、とんでもなかった。橿原バイパスを通り抜けるのにたっぷり一時間。普段ならものの数分で通過できるだろう道に、一時間。その後も嫌になるほど混んでいる。そのわりに、境内に設けられた駐車場には、案外すんなりと停められた。

 参拝道も思ったよりずっとまったりしている。昔明治神宮まで詣でた時は今晩中に帰れるだろうかと危ぶんだものだが、本殿まではすぐに着いたし、お御籤もすぐにひけたし(中吉)、守護矢もすぐにいただくことが出来た。去年の道明寺天満宮の方がよほど時間がかかったくらいである。

 まあ去年は元日に詣でたし、やはりピークは過ぎているということなのだろう。

 本年もどうぞよろしう。

2004.12.29

 今年は何かと災害の多い年であったが、年末に来てまた大災害である。最初期の報道では死傷者合わせて50人などとアナウンサーが話していたのが懐かしい。今や死者だけでも7万人を超え、このままいくと10万人を超える恐れもあるのだそうだ。

 深夜にNスペの再放送をやるのは年末の風物詩だが、それが今年は『地球大進化』である。このシリーズでは生命の進化を、主に地球環境の面から捉えて放送しているのだが、驚いたことに、進化を促してきたのはほとんどの場合地球規模の大災害であったというのが、最近の通説らしい。つまり生物のほとんどが絶滅するような過酷な災害の中を生き延びるために、苦肉の策として進化を遂げてきた、というのである。

 現代文明に怖いものはない、と、普段ほとんどの人が思っている。ぼくだってそうだ。しかし、今回のような天災の前には、人間など無力に等しいのだということをあらためて思い知らされたという人も多かろう。人間に限らず、一個々々の生命は、地球に比べればほんのちっぽけな存在だ。だからこそ、生命は進化してきたのだ。

 現生人類にはもはや遺伝子レベルでの進化は起きないと言われている。しかし文明の進歩は、確かに人間にとっての進化だ。そして文明の進歩とは、より多くの人が手を取り合って、より大きなものに立ち向かえるようになるということだ。できるところから支援を始めるのと同時に、くだらぬ戦争が来年はなくなることを祈るばかりである。

2004.12.24

 メリークリスマスと挨拶するのは25日になってからであるので、勘違いしないように。というのも実は勘違いなのではないかと、最近になってふと思い付いた白林檎である。

 キリスト教の本場では、25日がクリスマス本番であるのは確かだが、25日だけをクリスマスとして祝うよりも、25日を中心とした数日〜数週間をいわばクリスマス期間として、盛大に祝うらしい。言ってみれば元旦だけでなく松の内であれば「明けましておめでとう」と挨拶をしても少なくとも日本では怪訝な顔をされないのと似たようなものなのだろう。

 従って本日24日はもとより、20日頃からすれ違う人に「メリークリスマス!」と挨拶をしても、キリスト教的にはおそらく間違いではない。故に「メリークリスマスと言っていいのは25日だけ」というのは、実は似非原理主義者の妄言だったのではないかと思う次第である。

 ところで急速にIT革命の進むプロ野球パ・リーグであるが、柔軟銀行が買い取った福岡ダイエーホークスが名称を「福岡ソフトバンクホークス」と改めることが、今日発表された。楽天イーグルスといいどうも耳慣れないが、まあ時間とともに違和感がなくなるだろう。

 それはともかく、名前に福岡とあるからには当然福岡ドームをホームグラウンドにするのだろうが、オリックスバッファローズと神戸で試合をする際、ホームチームがバッファローズではなくホークスになってしまうのではないかと、今から 楽しみ 心配でならない。

2004.12.23

 まだ少し残っているが年内一杯保つかどうかわからなかったので、天川へ水を汲みに云ってきた。流石に寒い。今日は今冬一番の冷え込みだそうで、初めてセーターを引っ張り出して着たのであるが、それでも寒い。「季節感がないから」と称して冬でも半袖のシャツを愛着し、外出時にはウィンドブレーカーを着て済ましている相方も、流石に凍えそうにしていた。

 帰途、相方が唐突に携帯電話を機種変更したいなどと言い出したので、水を家に置いたらその足でニノミヤへ。FOMAのPにするはずが、液晶の美しさに魅せられて、土壇場でSHに変更。最新機種であるからFelicaも付いているが、まあこれはほとんど使わないだろう。「普段持ってるケータイに、普段持ってるおサイフが一緒に。便利やん♪」などと宣伝されているが、何しろ普段からケータイを持ち歩かないどころかどこに置いたかわからなくなることもしばしばあるくらいの超ライトユーザーには、i-mode Felicaなど無用の長物である。

 手続きの待ち時間にフロアをフラフラしていて、ついでに空気清浄機を購入。こちらはナショナルである。ラジオCMで「除菌・イオン」の名言(これは実際に聞いてみないと面白さがわからぬ)で白林檎を笑いのどツボに嵌めてくれたシャープ製品も並んでいたが、相方が家電はナショナルに限るというし、何よりフィルタ交換が不要(水洗い出来るのである)というのと、アレルゲンと徹底的に戦うというコピーが気に入ったので、これにした。さらには、ぼくも一般的な家電製品はやはりナショナルに限ると思っている。面白みがないという人もいるが、家電は堅実で頑丈なのが一番だ。

 同じ松下でもパナソニックになると途端に故障率が上がるのだから不思議なものである。まあそれだけ最先端の技術というのはデリケートなものなのであろう。

2004.12.17

 夕方、道路を歩いていると、一台のタクシーに呼び止められた。タクシーを呼び止めたことなら何度もあるが、タクシーに呼び止められるのは初めてのことである。ところが、その後にもっと信じ難いことが起きた。なんと道を尋ねられたのである。タクシーの運転手なんぞというのは特殊スキルで、たとえ網走から乗車したとしても「○○町の自宅まで」と言えばアイヨっと返事をする間もあらばこそ、威勢よく発進したかと思えばウトウトするかしないかのうちにふと気がつけば見慣れた町並み、そうそう、次の角を左。あ、ここでいいです。という程度のやりとりで済んでしまうほどに、彼らは道路には精通しているものと思っていたもので、意外といえばこれほど意外なことも他になかった。

 聞けば梅田あたりからこの辺まで客を運んだのはいいが、梅田へ帰る道筋がわからず困っていたという。梅田までとなると不案内だが、阪神高速に乗ってしまえば何とかなるというから、別段急ぎの用事があるわけでもなし、いつも通る道順を話しておいた。あとは彼が無事に帰り着けたことを祈るばかりである。

 夕食時に相方に「被告と被告人はどう違うのか」と訊かれたので、被告は民事で被告人は刑事であると通り一遍の説明をしたら、そんなことはわかっていると怒られた。そうではなく、何故民事では被告で、刑事になると被告人になるのか、その由来を知りたかったらしい。左様なことは聞いたこともないし、考えたこともない。疑問に思ったことすらないから、調べたことも一度もない。

 とりあえず手近なところでググってみたりなどするが、やはり通り一遍のことしか書いておらず、この記事を書いている段階では由来に言及したページは見当たらなかった。そもそもこういう用語は、法に定められているから使っているという程度のことで、リンゴはリンゴ、ミカンはミカンと名前が付いているのと同様である。当然、法律用語にしろリンゴにしろミカンにしろ、故事来歴はあるはずだが、日常会話においてリンゴの語源に思いを馳せることが皆無に近いように、法律家や法律学生はいちいちそんなことを気にしないのである。

 まあ、ひょっとしたら講義のときにちらっとでも触れられることがあるのかもしれないが、少なくともぼくは耳にした覚えがない。

 とりあえずどちらがどちらなのかをきちんと覚えるという程度で良いのであれば、民事の原告・被告は単に裁判上の立場を指しているだけであるのに対して、刑事でいう被告人はいわば代名詞に近い用語であると考えておけば良かろう──もちろん被告人も立場を指す語なのであるが、刑事裁判は民事裁判と比べて登場人物が多く、「訴える側」「訴えられる側」程度の分類では逆にややこしくなってしまうので、用語の範囲を民事のものよりも限定しているように思われる。従って、より代名詞的性格が強まっていると考えられるのである。

 とまあ、ごちゃごちゃと書いたが、あくまでこれは白林檎の見解に過ぎないので、あまり信用しない方がよろしい。

 マスコミはこの辺をかなりテキトーに扱っており、善良な市民が混乱する原因となっている。刑事裁判にかけられている人間を指して○○被告などというのは不正確極まりないので、あれは止めた方が良い。自分たちの放送している情報は大して正確じゃありませんよ、と自ら吐露しているようなものだ。