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2003.4.6
三谷幸喜『みんなのいえ』を TSUTAYA で借りてきて鑑賞。相方が観たいと言ったからである。
この人の作品は以前に『ラヂオの時間』を観たことがあるが、他は知らない。テレビドラマも何本か手がけているとのことで、そちらも映画同様面白かったと相方は言っていた。しかしテレビドラマは滅多に観ない(というかまともに観たことのある作品は一本もない)ので、そちらはとんと縁がない。
「限られた時間と空間の中で展開されるコメディ」が真骨頂と評される三谷幸喜、要するにこの人の作品は舞台向けなんだろうなあ、と思ったりする。これまでの作品も舞台を前提に台本を用意したら、きっとより面白いものになるはずだ。といっても別に三谷さんの映画監督としての力量に疑問符を付けているのではなくて、『ラヂオ』も『みんなのいえ』も面白かった。しかしいずれも舞台風に作られているから、ぼくの場合、鑑賞するのに余分なパワァが要る。ので、あまり自分から進んで三谷作品を見ようとは思わない。見始めてしまえば楽しめるんだけど。
で、『みんなのいえ』であるが。
登場人物達が(例によって)少なからずエキセントリックなためにコメディに仕上がっているけれど、創造と制作の対立構造というテーマは仕事柄かなり興味深かった。キーとなる三人の男、放送作家と大工とデザイナーは、日常のそれぞれの制作現場でそれぞれの葛藤を抱えている。この日記は別に映画評論じゃないから細かくは書かないが、この映画に於ける家の新築現場は、つまるところ彼らにとって制作に対する葛藤から解放されうる唯一の場所として用意されているのである。エゴが強調して描かれるのもそのためだし、激しい対立が生まれるのもこれが原因だ。そして、だからこそ映画作品として成立しているといえる。
そういえば『ラヂオの時間』も創造者と制作者の対立がテーマであった。しかしあれはまさに舞台芸術で、映画の尺では人間模様が入り乱れすぎる。『みんなのいえ』の方が大分ストレートに楽しめた。
小難しいことを書いたが、要するに面白かったということである。ときどきはこういう小難しいことを書いておかないとアタマとユビサキがさび付くんである。
それから、ココリコ田中は漫才師よりもコメディ俳優の方が向いていることを発見。どうする遠藤。
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